【連載もの】ぼんくら日記(14)
あの人は一度もこっちを見なかった
ここ何年か、ずっと気になっていることがある。それは、人間が人間を見る時の視線だ。つまり、知らない人からの視線。目は口ほどに物を言うと昔からいうが、何者かとすれ違うとき、最初に交わすのはまず言葉ではなく視線だろう。言葉を交わせない動物たちとは、なおさらそうだ。
視線を交わさないまでも、誰かが目の前に現れたりしたら、この人は一体どんな人なのか? と確認しておきたい気持ちは生じるもの。それは、自分に危害を加えない存在だろうかという防衛本能でもあるし、好きなタイプかもという淡い期待の場合もある。
そういう〈視線の感情〉に興味を持ったのは、ある巨大ショッピングモールでのこと。エスカレーターの脇にベンチが備えてあって、そこに年配の男性が座っていた。その男性はもうずっとそこに座っているようで、何をするわけでもない。私はそのベンチの後ろに立って、人を待っていた。不特定多数の人達がベンチの前をひっきりなしに通る。ふと、その男性を見ると、左右に顔を小さく動かしながら、その前を通る一人一人をくまなく目で追っている。見られている人たちはその男性の視線に気づかずに前を通り過ぎていく。たまに気づく人も、一瞥して通り過ぎていく。
男性の隣に座っている若者はスマートフォンに夢中で、他人のことなどまったく見る気配もない。まるでこの場所に来ている人たちとは無関係でいたいというような意思表示にも映る。逆にその年配の男性の動きは、とにかく誰かとコミュニケーションを取りたがっているようにも映る。もちろん、視線を送ったからといって、見知らぬ相手が話しかけてくれたりすることはまずない。その男性もそれは知っていることだろう。彼は、ただ目の前を通り過ぎていく人たちを習慣的に見てしまっているだけなのかもしれない。しかし、その習慣的行動の中に〈視線の感情〉は宿っている。
あの光景を見て以来、視界に誰かがふいに現れたり、誰かから確認の視線を浴びた瞬間、私はその相手を見ないようにしてしまう。はっきりいって、ただの自意識過剰だが、ある種のキャパシティオーバーのような気持ちになってしまい、相手を認識し返すのを拒否するように顔を背けてしまう。
今、SNSなどで私たちは手軽に承認欲求を満たし合う。条件を揃えれば、誰もが発信側になれるし、受け手側にもなれる。
あの年配男性は多分、SNSの世界には足を踏みいれていない。しかし、どちらにせよあの人が欲しかったのは「いいね!」ではなく、「自分はここにいるのだ」という存在そのものの承認欲求ではなかったか。
あなたも私もあの人に笑顔を返すことはなくても、あの人を笑うことはできない。
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山下賢二