【連載もの】ぼんくら日記(2)
ガケ書房の頃、吉本隆明の本が出たら必ず買っていく常連さんがいた。年齢は、多分50代。髪の毛はざんばらの伸ばし放題。頭頂部が薄かったので、一見、落武者のような髪型だった。背は高めでガッチリめの体格。何の特徴もないメガネをかけている。片足が不自由で、悪い方の足の靴は半分しか履かず、ずるずると引きずるように歩いた。
昼間、ワンカップを片手に赤ら顔で白川通りを歩いている光景をよく見かけた。歩き疲れて、自動販売機にもたれて地べたに座り込んでいるときもあった。お風呂はあまり入っていないようで店の中に入ってくると、その香りがした。
新聞の切り抜きに自分の名前と電話番号を書いて、レジで欲しい本を注文していく。来る時は、毎日のように来た。何もなくても、昨日と同じ棚でも、見に来た。そのたびに香った。哲学とキリスト教とビートルズの本が店内にあると、それも買っていった。財布からはいつも一万円札が出てきた。
レジのある机の下に、フリーペーパーの設置コーナーがあって、そこに足をひっかけて、店の外まで転がっていったことがある。買物をした後、後ろに並んでいた若い女性をよけようとしてつまづいた。片足バランスなので、どこまでも転がっていった。
一度だけ、釣銭が間違っていたのではないかとやって来たことがある。丁寧に説明した。自分が勘違いしていたことが分かった途端、その人は照れ笑いしながら謝罪したのだった。
吉本隆明全集が晶文社から、そして吉本隆明<未収録>講演集が筑摩書房から出始めて、その人はもちろん定期購読をお願いしてきた。2冊揃ったら、電話する。いつもすぐにやってきた。
しかしホホホ座に場所が移転すると、電話しても来なくなった。家から少し遠くなり、また、近くまで何回か行ってみたが、とうとう場所がわからなかったと言われた。足の状態も少し悪いらしいので、毎回、配達することにした。
アパートの部屋の前まで行くと、その時点で香った。呼び鈴を押して、ドアを開けるとその香りが鼻孔に入って来る。いつも一万円だった。お釣りと領収書は欠かせなかった。
ある日、入荷の電話をすると、「電源が入っていないか、電波の届かない所におられる可能性があります」と固定電話のはずなのに、携帯電話のようなアナウンスが流れた。留守番電話にはならないので、直接、家まで行くことにした。
呼び鈴を押す。なぜか押しごたえがなく、スカスカした感じで鳴っていないようだ。ドアを叩き、声をかけてみる。いないようだ。
同じことが翌月も翌々月も続いた。吉本隆明全集はどんどん溜まっていく。季節が真夏なので熱中症など心配したが、前回閉まっていた窓が翌月にはちょっと開いていたりするので、生活はしているようだ。自分の訪問するタイミングがいつも悪いだけなのかもしれないので、ポストに書き置きを入れておいた。香りは相変わらずだった。僕は帰り道、これまであの人が何を拒絶して、何を受け入れて、あの部屋に辿り着いたのかを考えたりした。
しかし一向に連絡もないので、その翌月もまた行くことにした。すると、アパートの駐車場に大きなトラックが止まっている。邪魔だなぁと思いながら、その横に車を止め階段を上がると、あの人の部屋のドアが開いていた。本が平積みに畳の上に並べられ、布団が敷きっぱなしになっている。声をかけたが、人はいないようだ。どうやら、下のトラックの人がこの部屋の荷物を運び出しているようだった。急いで、あの人のことを聞いた。すると、トラックの人は誰もいないはずの大きな昼間のガレージで声をひそめて言った。その人は亡くなったのだと。トラックの人は詳しくは知らないようで、とにかく部屋の後片付けをするように大家さんから頼まれたのだという。彼は、布団を見たかと僕に尋ねた。そして、後片付けが大変だよと困った顔をした。それがどういう意味なのか想像したくない。
僕は、布団はちゃんと見なかった。僕がしっかりと見たのは、入口に転がっていたCDだった。それは、「ビートルズ・アンソロジーVol.3」だった。
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山下賢二