【連載もの】ぼんやり京都(8)

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毎年、この時期になると長袖から半袖に切り替えるタイミングでずいぶん悩む。
気温が上がる序の口で半袖にしてしまったら、夏真っ盛りのときにどうするんだと、他人からすれば不毛と言える攻防が、自分のなかだけで日々繰り広げられる。

袖を徐々に短く、生地を徐々に薄く。というような、着こなしのグラデーションができるほど洋服があるわけではない。選択肢は割とはっきりしている。長いか短いか、厚いか薄いか。
寒くなるときは足し算をしていけばいいので、さほど悩むことはないのだが、暑いからといってゼロ(全裸)にするわけにはいかない。おしゃれは引き算する方が難しい。というのは本当だろう。
そういう意味ではないかもしれないが。

服装といえば、一乗寺でレコード屋をしていたとき、常連のYさんという人がいた。
Yさんは、小太りにした火野正平のようなルックスで、年の頃は50代くらい、太めのジーパンにストライブのワイシャツ、上着は水色のジャンパーをいつも着ており、それは真夏でも真冬でも、年中全く変わることは無かった。財布は持たず、小銭をフィルムケースに金種ごときっちり分け、お札はジップロックのようなナイロン袋に、これまた金種別に分けて入れていた。持ち歩くカバンはコンビニの販売袋を数枚重ね、強度を増したもの。僕はその独特の美意識を尊敬していた。

服自体は、くたびれてはいるが、不潔というわけではない。それどころか、ワイシャツの裂けたボタン穴が丁寧に補修してあるのを発見したときは、たいそう驚いた。Yさんは単なる無精者ではないのだ。

謎めいた常連さんの多いレコード屋だったが、Yさんは、その中でもトップクラスの謎人物であった。買うレコードも演歌から現代音楽まで、異常な振り幅の広さがあり、趣味嗜好が全くつかめない。あまりおしゃべりも好きではないようで、店では挨拶程度の会話のみ、商品を渡すときにはいつも「すみません」と小声で謝りながら受け取ってくれた。

気になるYさんと話すきっかけを探しながら数年が過ぎたある日のこと、買うばかりだったYさんが数枚のレコードを買い取って欲しいとやってきた、売るときは無言でもいいが、買うときには会話が生まれる。ここぞとばかりに、積極的に話しかけてみた。Yという名前を初めて知ったのもこのときだった。

Yさんが会話をしなかったのは、僕のことをすごく怖い店員だと思っていたらしく、そのことを大変申し訳なく思いながら、初日は当たり障りのない音楽などの話で終了した。さすがにいきなり人の外見について聞くわけにもいかない。
以降、交流を深めつつ、服のことを尋ねる機会を伺っていたが、決して饒舌とは言えないYさんに変な威圧感を与えてはならぬと、気を遣い、会話は増えたものの関係性は膠着していた。

その機会は、思いもよらぬかたちでやってきた。

「すみません」いつものあやまり口調で来たYさん、なぜか股間を押さえている。「トイレを借りに来たのだな」咄嗟にそう思った。コントやマンガではよく見るシーンだが、実際にそのポーズになっている人は初めてだ。しかし、トイレではなかった、何かヒモを貸してくださいと申される、何事かと思いきや、ベルトが切れてズボンがずり落ちるので、ヒモで締め上げたいそう。
手元にあった梱包用のナイロンロープを渡す。
売り買い以外の出来事は、お客さんとの距離を一気に縮める。ほっと安堵の表情を浮かべるYさんに、思い切って服のことを尋ねてみた。

Yさんが、ぽつりぽつりと話す内容は、やや意外なものだった。
Yさんの服はいつもお母さんが買ってきていて、お母さんが亡くなった20年ほど前から下着以外の服は一着も買っていないらしい。ずっと昔はもう少し洋服を持っていたそうなのだが、汚れたり、破れたり、太って着られなくなったりして、最終的に今着ている服だけになったという。
究極の引き算ファッションだ。

洗濯するときはどうするのか?
家でも同じ服装なのか?
フィルムケースの財布は?
まだまだ聞きたいことがあったが、その話が聞けただけで十分で、ますますYさんを尊敬してしまった。

それ以上Yさんと親しくなることはなく、いくつかの謎は今もそのまま残っている。騒がしい世の中で、Yさんの周りだけ特別な静寂に包まれているような感じがして、うかつに干渉してはいけない気がしていたからだ。
ただ、それからずっとYさんの腰には、あのナイロンロープが巻かれたままで、僕はそのことが、妙に誇らしく、うれしかった。

Profile

松本伸哉

ホホホ座2階店主

ホホホ座の連載もの

  • 『ぼんやり京都』松本伸哉
  • 『ぼんくら日記』山下賢二
  • 『絵そらごと〜こどもじみた大人たちへ』下條ユ