【連載もの】ぼんやり京都(10)
例年であれば、桜も咲いている4月初めの哲学の道。今年のつぼみは鋼鉄のように硬く、一分も咲いていない。京都観光がっかり度数が急上昇するなか、いつものように散歩をしていると、不意に鼻腔を襲う死臭、どこかに小動物の死体があるのかもしれない。
桜と死体と言えば、檸檬爆弾魔こと梶井基次郎。
桜の美しさを信じられず、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と思うことによって、その美しさを信じようとした。美しいものへの畏れ、自己の美意識に対する不安が詩的に表現された名作である。
梶井は今でいう「中二病」の権化のような人なので、センシティブすぎる感性が生み出した妄想は、確かに異常ではある。しかし、要はこの小説、ちょっと視点を変えれば、桜に大騒ぎする世間に乗り切れない自分を正当化しているだけ。とも言なくはない。
日本全国の桜の名所、そのほとんどは人間が人工的に作り出した風景だ。また、最もポビュラーな桜であるソメイヨシノは、園芸用に品種改良されたもので、受粉しても子孫を残せない。日本人の桜に対する執着は、植物の生態をねじ曲げるほど強い。
何分咲き。と小刻みに開花をカウントダウンし、開花が「宣言」されれば全国ニュースで報道される。7年に一度しか開花しないというスマトラオオコンニャクならそれもわかる、しかし、人の手で訓練された桜は、病気にも強く、毎年、ほぼ予定通りに咲いてくれる。何ヶ月も前から京都観光を計画された方にとって残念な状況も、誤差1週間くらいなら、仕方のないことだ。
梶井がその事実を知っていたのかどうかはわからないが、何かしらの違和感は感じていたのかもしれない。そういえば、小林秀雄も人工的なソメイヨシノのことを「一番低級な桜」とボロカスに言っていた。
さて、そんな辛気臭い理屈を持ち出してまで、桜について書いたのは、自分も梶井と同じく、毎年繰り広げられる桜フィーバーに全く乗り切れずに終わってしまうからに他ならない。あれほど世の注目を集める桜に、少し意地悪をしたくなったのだ。
ただ、年々、桜の良さがわかるようになってきた気がする。
京都に限っていえば、今年の桜は、咲いて欲しい時期に咲かず、咲いたと思えば天気大荒れ、この雨風で散ってしまうかと思ったら、しぶとく花を残す。花見をしようとクラウチング体制に入った人間に号砲を鳴らさず、いつの間にかレースが終わっていたような印象だった。
都合よくコントロールしてきたつもりだろうが、結局、いつも人間は桜に翻弄されている。自分も同じだ、意識していないようで、人一倍、桜を意識しているのかも知れない。
いつだって、桜は堂々と咲き、散っていく。
えらいもんだなと思う。
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松本伸哉