【連載もの】ぼんやり京都(1)

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もう30年近く前のことだが、銀閣寺参道脇の古い一軒家に、間借りをして住んでいたことがある。1階に大家さんが住む2階の6畳一間。書生っぽい貧乏暮らしにあこがれていたので、庭の大きな松の木が見える窓際に文机を置き、天神さんで古道具をそろえ、ひとり悦に入っていた。

その頃はある料理旅館で働いており、早朝から夕方までの勤務が多かったため、早い時間に銀閣寺湯(お風呂屋さん)に行き、少し遠回りをして、西田幾多郎よろしく哲学の道を散歩しながら帰るのが習慣になっていた。
夏はまだしも、日の短い冬場の哲学の道はすでに真っ暗、たっぷりの熱いお湯に浸かったとはいえ、底冷えする京都の冬、あっという間に湯冷めする。「洗い髪が芯まで冷えて」と古い流行歌にあるが、こちらは坊主頭、脳まで冷えるようだ。

ある冬の日のこと。いつものように冷えきった体で、田辺元よろしく哲学の道を歩いていると、遠くから「ひょ〜」という物悲しい音が聴こえる。不気味だ。鵺(ぬえ)だろうか?
だが、恐怖を感じるほどでもない、音の方向に進み、暗やみに目を凝らすと疎水沿いのベンチに人影が。鵺よりもこんな暗がりで奇妙な音を発している人間の方がきしょく悪い、関わらないでおこう。と、足早にその前を通り過ぎた瞬間、ひょ〜が止み、「タノシイデスカ?」と声をかけられた。ぎょっとして振り向くと、ケント・デリカット似の外国人がこちらを凝視している。
「サムイデスネ」
にこやかに笑いかけてくるデリカット。知らんがな、タノシイって何がやねん。と思いながらも「なんだ、デリカットか」という安心感からか、「あっ、そうですね」と、つい答えてしまう。そのまま立ち去るのも不自然なので、近づくと、手に30cmくらいの細い棒を持っていた。
「△X◎Xデス」
英語だったので何を言ってるのかわからなかったが、どうやら自作の笛らしい。
素材は葦のような感じだったと思う。ベンチには4〜5本同じようなものが置いてあり、それを順にひょ〜と鳴らしていた。やはり、ほがらかな音色とは言い難い。さぞかし近隣住民は戦慄していたことと思う。

哲学の道のデリカットは、テレビのデリカットとは違い、静かに考えながら話すタイプ、当然めがね芸もしない。日本語はテレビ・デリカットの方が少々達者だろうか。はじめて親密に接する外国人に多少の緊張感もあったが、不思議と会話も心地よく、結構な時間ベンチに座って話をしていた。
何を話したのかはほとんど憶えていない。デリカットの本名も忘れてしまったが、後日この近くで行われるというパーティーに招待をされたことは憶えている。「ココデス」と、哲学の道から少し東に入ったパーティー会場宅まで案内してもらい、再会を約束して別れた。

結局、そのパーティーには行かなかった。
「外国人のパーティー」と聞いて目に浮かぶのは、三角帽をかぶり、クラッカーを鳴らしながら大騒ぎをする、とてつもなく陽気な光景。しかし、自分にとってのデリカットは、暗い哲学の道で笛を吹きながら、やさしくおだやかに話す外国人。ほろ酔い気分ではしゃぐ彼に対し、どう接すれば良いのか?自分のなかにある、大切な思い出がなくなってしまうような気がした。

それからも散歩は続き、幾度となくデリカットがいたベンチの脇を通り過ぎた。
こちらの一方的な思い込みで約束を果たせなかったことを思うと、なんとなく会うのも気まずい。それでも、再び会うことができれば「たのしいですか?」と声をかけ、行けなかったことをあやまりたかった。
だが、二度と、あの物悲しい「ひょ〜」を聴くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Profile

松本伸哉

ホホホ座2階店主

ホホホ座の連載もの

  • 『ぼんやり京都』松本伸哉
  • 『ぼんくら日記』山下賢二
  • 『絵そらごと〜こどもじみた大人たちへ』下條ユ