【連載もの】ぼんやり京都(2)
京都には海がある。
南北に細長い京都府。やや怪獣的造形の頭っぽい部分、そのあたりが海に面している。見るべきものが掃いて捨てるほどある京都市に対し、いくら海があるとはいえ、京都市から100キロ以上離れた府北部までやってくる観光客は少ない。
冬場は雪も多く、風も強い。晴れたと思ったら、鉛のような低い雲が一気に押しよせ、あっという間に雪を降らす。晴〜曇〜雪の短時間ローテーション攻撃は否応なく人を不安にさせる。
そんな北部の港町で、高校時代までをすごした。
母親方の実家が京都市内にあったことから、年に数回は父親の運転する車に乗り、家族で出かけていた。幼少時代、「京都市内に出かける」というのは一大おたのしみイベントであった。法事など、子供にとっては何ひとつレジャー要素のない場合がほとんどだが、長い時間車に乗れるというだけで気分は高揚した。
せまい車のなかでは普段とは違う家族の空気が流れる。
父や母とのいつもとは違う距離感をこそばゆく感じながら、無駄に饒舌になり、はしゃぎすぎて車に酔い、ゲロを吐く。後先考えぬ行動が幼児ならではだ。
一番のたのしみは車窓の風景であった。
そのころはまだ70年代。京都市内に至る国道沿いには、喫茶店やドライブインが並び、今ならチェーン店になってしまうだろうが、当時はほとんど個人商店か地元の会社経営。実用性なしの巨大水車を回してみたり、看板の上にUFOを光らせたりと、店主の個性がロードサイドに炸裂。洗練された、おしゃれな風景とは言い難い。しかし、ひなびたうどん屋ひとつなく、ヘタしたら100年くらい景色の変わらぬ里山で育った子供にとって、それらはいかにもモダンで楽しげに映り、眺めているだけでウキウキした気分になった。
盆や正月には道路も渋滞し、父親は必ず不機嫌になった。
それでも車中は楽しかった。このまま渋滞が続き、ずっと家に着かなければいいな。と思いながら、赤いテールランプの連なりをぼんやり見つめ、うとうとすることが幸せだった。
2015年7月。京都市内から北部までをつなぐ京都縦貫自動車道が全面開通し、北部の観光地、天橋立や伊根の舟屋などは京都市内からも劇的に近くなった。
開通後に伊根まで行ってみたのだが、府外ナンバーの車も多く、数少ないお食事処や商店はどこも繁盛している。立ち寄った高速サービスエリアには地元の野菜や加工品を売っていて、すっきりと清潔な店内も快適だ。
ゲロを吐きながら行き来していた昔に比べれば、感覚的には半分くらいの時間だろうか?
とにかく早い。
もののデータによると、今は70年代に比べ、平均寿命が10年ほどのびているらしい。10年余計に人生があると思えば、数時間の短縮など取るに足らない時間のように思える。それでも人はどんどん時間を短縮する。
その時間を一体何に使うのだろう?
ふと、あの国道沿いの風景を思い出す。今はほとんどのお店が閉店しているに違いない。誰の責任でもない、人が道なるものをつくりはじめてから幾度となく、くり返されたことだ。街はどんどん清潔で機能的になり、無機質なスカスカの道路でつながって行く。
車に乗っていても、子供たちは退屈だろうな。
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松本伸哉