【連載もの】ぼんやり京都(12)

 

 

先日、知人がアメリカ人のジャーナリストを連れてやって来た。
京大西部講堂のことを本に書きたいと言う。西部講堂本の話は、数年間隔で立ち上がり、消滅している難攻不落の企画だ。

その際に、京大が今、えらいことになっていると聞いた。吉田寮問題とタテカン撤去問題のことである。
(*それぞれの詳細については、各々検索をしてご確認下さい)
10年ほど前、吉田寮の食堂がイベント禁止(現在は再開されているらしい)になって以降は、2、3度足を踏み入れただけであり、仲の良かった西部講堂連絡協議会のOBとも疎遠になっているので、以前から話題になっていた吉田寮のことはともかく、タテカン問題については、彼から一通りの説明を聞くまでは、ほとんど何も知らなかった。

会話の流れから、何らかの意見を言わねばいけない状況になったが、馬鹿正直に「当事者でもないし、よくわからないから、あまり興味がない」と言ったところ、ものすごく悲しい顔をされたので、取り繕うように話したことが以下。

「表現の自由」などと言う、壮大なテーマに興味は無い。それは、それで、「ややこしい、かしこ」を大量に保有している京大生や、京大シンパの、(いい意味で)いやらしい、重箱の隅をつつくような活動は、今まで通りずっと続くだろう。
今回のタテカン攻防戦で、ゲバ文字で書かれたストレートなメッセージもある一方、タテカン、その言葉自体の意味を問うような、メタレベルの回答があったことに、安心した。ボケとツッコミ、不条理に不条理で対抗する、エンタメ要素の高い泥沼感がおもしろいので、僕は、それを鑑賞する側として楽しみます。

たぶん、こんな感じだったと思う。

 

ところで、2018年の吉田寮入寮パンフレットを見たことがあるだろうか?
こちらからダウンロード出来るので、ぜひ見てみてほしい。

 

2018年版吉田寮入寮パンフレット(ファイルサイズ153MB) 

 

退寮問題にも数ページが取られているものの、執拗に繰り返される「おジャ魔女どれみ」ネタ、CADのスペックを5パーセントくらいしか使っていない床貼り解説、から揚げの作り方etc…「入寮パンフレット」とは一体何ぞや。と考えざるを得ない、硬軟入り乱れた、素晴らしき無駄な努力が炸裂した超大作である。
「表現の自由」を問うのであれば、同時にこのカオスを受け入れる度量も必要だ。

冒頭の西部講堂本企画が、いつも形にならないのは、(僕の所見では)証言者、それぞれ言っていることが違う。とか、あいつの言っていることが気にくわない。とか、そのレベルのさやあてが、この界隈の日常でも、常に展開されているので、まとめる以前の状況が複雑すぎるところにある。

「文化」は多数決で決まるものでは無いので、当然だろう。

タテカンも吉田寮も西部講堂も、状況の変遷はあれど、誰もが納得するジャッジが下される日は、きっと来ない。
規制を強要すればするほど、反発は強くなり、時には予想外の角度から切り込んでくる。文章で警告を出せば、細かい言葉尻や解釈について、容赦ない揚げ足取りが実行される。つまり、やればやるほど火に油を注ぐことになる。規制をする側も、そのことに気づいているはずだ。

永遠に終わらない、カオスの実験場としての、京都大学。

正直なところ、これらの問題を自分ごとに投影して考えることが出来ないので、タテカンや吉田寮のこの先については、相変わらず、建設的な意見を持てないでいる。
強いて言えば、京大関係者と話した際、「吉田寮を建て替えるのであれば、寮兼屋台村にすればどうか?」と、仰天プランを提案したくらいだ。
「文化」を創るのであれば、整理するのではなく、より複雑に、よくわからない方向に持って行く方がいいかも知れない。

 

京大周辺のタテカンが撤去されたところで、別の「タテカン」が現れるだろう。
それは、もはや物体としての「タテカン」ではなく、思想を体現する全く別のものにトランスフォームしている可能性もある。
さっぱり意味がわからない。
そのことに対し、大人びた意見を言うのでなく、正しい傍観者として愛でる感性は失わないでいよう。

今、思うことは、それだけです。

 

 

 

Profile

松本伸哉

ホホホ座2階店主

ホホホ座の連載もの

  • 『ぼんやり京都』松本伸哉
  • 『ぼんくら日記』山下賢二
  • 『絵そらごと〜こどもじみた大人たちへ』下條ユ